長崎教務所・原爆資料館・平和公園一日バス研修

img_1396.jpg



六月十三日、筑前西組靖国学習「長崎教務所・原爆資料館・平和公園一日バス研修」が開催された。当日は、大型バスを貸し切り、参加者は44名と組内寺院のご門徒が多く参加された。午前に博多駅を出発し、車内では靖国学習担当の正聞寺さん、萬福寺さんより戦争に反対した岐阜県の竹中彰元師の資料などをもとに今回の学習の趣旨について説明があった。
予定より少し前に長崎市内に到着、昼食会場は、長崎湾、稲佐山公園が一望できる四海楼さん。なんと長崎名物の「ちゃんぽん」「皿うどん」は、こちらの先代が考案されたそうで、店内には「ちゃんぽんミュージアム」もありました。
img_1345.jpg


 おいしいお食事をいただいた後、短い時間でしたがグラバー通りを一同散策、大浦天主堂の手前には、真宗大谷派の妙行寺さんがありました。
 その後、長崎教務所へ向かうのですが、まさに長崎は坂の街、大型バスは教務所へと続く坂と階段の下で駐車しなければならず、そこから皆さん汗をかきながら教務所に向かって歩きました。

img_1349.jpgimg_1358.jpg

 教務所では、元久留米教区の駐在教導さんであった中西無量氏より長崎原爆投下についてお話しをしていただきました。お話しは、長崎教区で作られたリーフレット「原子爆弾災死者収骨所 非核非戦―共に生きよー」をもとに長崎教区の寺院ご門徒さんの戦争に対する取り組みが「反核反戦」から「非核非戦」へと変化してきたこと、「非」という文字に示される内容として、他者にはたらきかける「反」と共に、自らのうちに問いかける「非」という言葉をもって自らを明らかにしようとしてきたことなどが語られた。また、長崎教務所に収骨されたお骨について原爆投下直後の状況から詳細に説明されました。リーフレットには「ここに一万体とも二万体とも推定されたお骨が収納されています。このおびただしいお骨は、昭和二十年(1945年)八月九日、米軍が投下した原子爆弾の直撃を受けて亡くなった身元の分からない方々のお骨ですー略―進駐してきた米軍は、爆心地そばの浦上川に飛行場を造る計画を立てます。こうした惨状を憂えた人たちが、とにかく爆心地付近の死人を何とかしようと、拾い始めました。」とある。また、海外の戦地から復員帰国してきた時に焦土と化した故郷、長崎の街を見た時の悲しみを忘れないと語るご門徒が、東京電力福島第一原子力発電所事故による放射能汚染によって故郷を奪われた福島の人々の悲しみは、あの時の自らの悲しみと同じなのではないかといった言葉を紹介された。
 その後、原爆資料館、平和公園を訪れ、夕刻、博多駅に戻りました。

img_1384.jpgimg_1375.jpg

 福島で原発の甚大な事故が起きた後、一部のマスコミは「広島も長崎も原爆が投下された後に、街は復興し人々はそこに生きてきたではないか、だから、福島もそんなに心配することはない」という論調の言葉を発していました。しかし、今回の長崎研修に参加して、人々は放射能による身体への影響を受け続け、苦しみ、さらに、いわれなき差別を受けてきたことを学びました。また、いつの時代にも時の政府は、「補償金」という「金」で解決をしようとし、そのことで原爆投下後にそこに住む人々相互に様々な問題を起こしてきたことを学びました。そうしたことは、これもいつの時代にもマスコミは伝えないこと。「広島の問題は、広島の問題」「長崎の問題は、長崎の問題」に留めさせようという力があること。苦しみ悩む人々の真実が、時代を超えて「声なき声」としてあり続けることに改めて、福島の人々の苦悩と悲しみを思うと共に、何一つ反省なきこの国の行方を恐ろしく思います。しかし、長崎の人々が「非」として明らかにされた自らへの問いかけを如来の慈悲として忘れないことを学んだ研修会でした。
img_1382.jpg   

                                                       

浄慶寺:大塚展彦