私たちの宗旨は浄土真宗です。

【本尊】 阿弥陀如来(あみだにょらい)


【正依の経典】   仏説無量寿経 (大経)
          仏説観無量寿経 (観経)
          仏説阿弥陀経 (小経)

【宗祖】 親鸞聖人(しんらんしょうにん)

【宗祖の主著】 顕浄土真実教行証文類(教行信証)

【宗派名】 真宗大谷派

【本山】 真宗本廟(東本願寺)
          
【所在地】 京都市下京区烏丸七条上る常葉町754


住職に聞く。




いま 思うこと


-真宗寺院の成すべき事?-

 聞いた話しか、読ませていたものか定かでは無いのですが、「真宗寺院には旗印が無い」。つまりは何をするところかがわからないと言う事なのだと思います。この事の背景はたぶんオウム真理教の入信者がお寺の屋根を、ただの風景にしか見えなかったという言葉を受けてのものだと思うのです。

 確かに他の宗教は色々と書かれてあったりするのを見ることがあります。例えば、無病息災・家内安全・商売繁盛・縁結び・祈願祈祷・水子供養等々、各種供養相談お受けします等と書かれてあります。しかし浄土真宗の寺院にてはそのようなものはありません。
 またそういうものが必要では無かったのが浄土真宗の寺院だったのだとも思います。そこには「講」というものが盛んに在り(現在では同朋会と名を変わった所もあります)、そして家庭の中に確固たる信仰が息づいていたからだと申せました。しかしそれも昔の話しとなってしまったと申さねばならない現状があるように思います。

 1988年に出版された「人は死んだらゴミになる ー私のガンとの戦いー」の著者である伊藤栄樹氏(伊藤氏は検事総長まで務められた秀才官僚)は真宗門徒の家に生まれ育ったと聞いています。この本について、故 林 暁宇師は「自身の親の遺骨をゴミと思われるのでしょうか?それでは拝むことはできませんし、夫を亡くした妻に夫の遺骨をゴミだとおもえるでしょうか?」という様なことを書かれてあったと思います。定かではありませんが。伊藤栄樹氏のごとく、もはや家庭の中に宗教と言う事が端っこに追いやられ、人間形成にとって欠くべからざる事と言うことは遙か昔のことと成り果てているように思えるのです。

 そんな現在に、真宗寺院は如何なる存在意義を持たせ得るのだろうか?人の欲求は飽くことが無い。その欲求に対応して次々に寺社が現れる。そこに人は押しかけ代用品にしかないにも関わらず、わらをもつかむつもりか、下手な鉄砲も数打ちゃ当たるような感覚なのか、代用宗教・疑似宗教にすがる。しかし本来宗教とは迷っている者の目を覚まさしめるもので無ければならない。これでは六師外道とそんなにかわらないのではないか。ましてや先祖が祟っているとかさわっている等というものは、亡き者を愚弄し喪家を脅迫するようなものでしかない。またそれにつられてしまう人は悲しくも愚かなことであり、仏ともいただくこともできず、親の恩知らずでしかないのかもしれない。

 また、この国で生きる人の現状は厳しいと申さねばなりません。それは、いま日本でうつ病などの精神疾患を抱える人は約390万人にのぼり。20年前に比べ1.8倍に増えていると言う事だそうです。
 家族で同じ家に住んでいるのも関わらず孤食ということがあり、社会全体が成績主義・成果主義・比較社会・競争社会であり、家庭の中までそれらが蔓延ってきているのではないか?家庭が安らぎの場であったのは昔のこととなっている。

 そんな現代に真宗寺院は如何なる存在意義を表現していくのか?確かに理解していただけるように表現することは難しい。ましていままで真宗寺院にもお念仏の御教えにも縁の無かった人には尚更だと思えます。成仏道などと言っても、相手にもされないだろうと思います。しかし浄土真宗の寺院だけが与えられる事を明確にしなければならないと思うのです。この事は一人の問題でも無く一ヶ寺の問題では無く、浄土真宗門徒全員が担うべき問題だと思います。

                                                          妙楽寺 金丸和張